いじめの問題、人としての『教育』のありかた

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    教育はその時代背景、文化によって変わります。
    今の日本で一番大切な教育は、イマジネーション能力、洞察力ではないでしょうか。
    学校現場では、今 再び『いじめ』の問題が取りざたされています。
    この問題も、本来、大人たちが受け止めていくべきはずの、行き場のない不安感や焦燥感を子供たちがどうにかして、発散させようとした結果と考えられるのではないでしょうか?
    昔から受け継がれてきた日本人の貧乏子沢山といった家族スタイルの変化、又、第2産業の農業、漁業を生業とする中で、皆が協力し合い共に生きていくということが得意な民族だったDNAも、少子化の波に流され希薄となり、初めて向かえる新時代の日本の社会形態に、日本人全てが戸惑い、苦しんでいるという要素もあるかもしれません。

    『いじめ』は、いじめる人、いじめに加わる人、いじめを止められない人、いじめられる人で、構成されていきます。
    その意味合いも、気になるから、からかうといったものから、自分の苛立ちのはけ口として行われるものまで、様々ですが、多かれ少なかれ、相手を気に入らない、生意気だ というような、上から見下す気持ちがその中にあるものです。人間には、こういった少し傲慢な、時には残酷な部分が潜在しているのです。
    しかしながら、成長としつけ、人間関係の中で、どこまでが許容範囲となるのか、それを超えたら、どうなるのか。といったことを学んでいくことで、その感覚は段々と穏やかになっていくものです。
    許容範囲のラインは、社会的な価値感という背景もありますが、自分がされたら、どう感じるだろうか?に沿って、成り立っているのではないでしょうか?
    たたかれれば、痛い、意地悪をされれば悲しい。最近の子供たちは、この当たり前の感覚が育っていないのです。

    ここ数年、詰め込み型の学習が問題視され、かたちばかりのゆとり教育が実施されてきましたが、現実的には学力低下につながっただけで、現在の教育における最優先テーマは、相変わらず能力、点数至上主義で 現実的には変わってはいません。
    学校とは、本来、教科学習だけを行うところではありません。
    感受性豊かな時期に、同世代、先輩、後輩、教師や職員と出会う中で、協調性、思いやりの心、ありがたみ、恥じる心・・様々な人としてのあり方や、心を、人との触れ合いをとおして身に付けていく場所でもあるのです。
    人格は、基本的には子供の時期に、人との会話の中、触れ合いの中で形成されます。
    少子化、核家族、拝金主義、格差社会、マンション、インターネット、セキュリティ等など、めまぐるしく変化し、忙しすぎる現代の日本では、ユックリとした会話、心が触れ合えるような時間が、大変少なくなってきています。
    人との会話、触れ合いが無いと、その時期が空洞となり記憶もままならず、子供、赤ん坊の心のまま体だけが大人となります。
    感情が少ない事で一見クールで大人の感じに見えますが、そのように見えてしまうことが実は大問題といえます。一番、面倒でヤヤコシイ、人間同士の関わりの増える学校、社会の中で、突然の様に急に、大人の心を要求され膨大なストレスを感じ、回避の方法も分からず困惑、混乱、迷い、自己回避、自己防衛の為、子供の様にキレ、人に当たり、又は、自殺、引きこもる というようなことが起こってくるのです。

    いじめの問題は、いじめる側の、自分でも気がつかないストレス、経験不足からくる他者の気持ちへの想像力の欠如と、周りにいる大人たちが能力至上主義の価値観に、そして忙しさに流れ、触れ合う時間を失ったために生まれた産物といえるでしょう。
    女優のジェーン・フォンダ がこう言っています。
    『人は皆、いくつもの人格を持って生まれ、成長に伴い、自分でひとつ選ぶか、あるいは親から促されたひとつを選び、社会生活を送ります。残された人格は退化していってしまう。
    けれど俳優の場合は、全ての人格がその人の中で生かされており、誘い出されるのを待っている。』
     
    つまり個人の、性格や傾向、可能性は固定されたものではなく、環境、人間関係、そして、自分自身のありようで、どの様にでも変化させることができるということです。

    そして、もうひとつ問題になるのが、便利過ぎる現代社会、何でも簡単に手に入る事があげられるでしょう。掃除も洗濯(クリーニング)も料理(コンビニ)も、昔は全てにおいて時間がかかり、その時間の中には人間関係が介在し面倒で大変で苦労した事が当たり前で、その事により人との関わりが生きて行く事の絶対条件でした。
    苦労することも人格形成、人間関係に重要なことです。結婚・仕事は苦労、努力する事であり、他人との触れ合い関わりがある面倒な事です(一人ひとりが人を支えあう)、長く付き合う為には、この人なら一緒に苦労したいと思える人、仲間を探すことです。大変なことですが、人は一人で生きて行けないことをよく考えてください。後は誰と生き何をするのか(目標創り)投げ出さないことが答え。アルバイト、恋愛は簡単で何時でも止めることが出来ますが、その気楽さが今の社会問題に繋がっているのです。
    苦労が無いと人間とは言えません。人との関わりの中で感情の学習は行われます。
    海外では異なった言語が使われたり、外面的に明らかに一人ひとり違いが分かること(白人、黒人、宗教、全く違う異文化)から、幼児期より人格形成、人間関係処理能力が求められ、また分かりやすいですが、日本人は同じ様な顔をしていることや、語らぬ、察する文化(農民は人を相手にしない)、南無阿弥陀仏(まかせる)文化が根本的にあり、分かり合えると勘違いしているように感じます。情報化時代の昨今においては、心は全く様々で他の方向を見ていることも認知しなくてはなりません。(昔は、あ、うんの呼吸など、多分分かってもらえると思っていたが今は有り得ません)

    人と人のつながりはとても難しく、自分の想像を遥かに越えた考えを持っている人もいます。世界を見れば生まれた地域、環境によって想像も出来ない程の違いもあります。
    人は生きていく上で同じ人類である人間と、付き合ってゆかなければなりません。
    孤島に一人で友人も家族もいなければ生きてはいけません。

    共存すること。共存するには助け合っていかなければなりませんし、助け合うには、相手の気持ちを汲み取る、想像力、洞察力は不可欠です。
    そして、お互いにその姿勢を持って交流することが必要になります。
    誰かに、助けられた、大事にされた、わかってもらえたという体験は、心を豊かにし、他者へのバトンとなります。
    嬉しい、ありがたいという暖かな気持ちを忘れずに、大人から子供たちへ、子供たちは友人や後輩へ渡していくことが、最終的には自分自身を幸せにします。

     学校教育の中でも、教科書をこなし、記憶して点数を上げることばかりではなく、人間としての教育を考え始めていますが、旧体制の日本のシステムでは教師自体が多忙であることもあり、困難を極めているのが現状です。
    その中でも、授業にゲスト講師を迎え、人間らしくあることのメッセージを伝えたり、個人の意見を発表するスタイルを導入して、個人の意見を尊重しつつ、自分の考えを提案していく練習をする学校も増えてきています。

    米国の授業では当たり前の、ディベートは、相手を打ち負かすためにあるのではありません。
    相手の意見を黙って聞き、どんな考えを持っていて、自分とはどこがどんな風に違うのかを知ったうえで、相手を認め尊重するようになることを目的としています。
    違う価値観を認め合うのは、口で言うほど易しくはありません。評価的な意識がどうしても働くものだからです。しかしながら、『みんな違ってそれでいい』という観点に立てば、いじめの問題にしろ、劣った人や逆に優れている人、又外見の違う人などを批判的な目で見ることはしなくなりますし、本当の意味で、個性の尊重、個性を伸ばす教育が出来るのではないでしょうか?


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